12月1日 World AIDS Day
この時期になるとアテシは少しブルーになってしまいます。
アテシにはちょっとトラウマ的な経験があります。
アメリカでAIDS Epidemicの最後の方に生きた世代で、その前の世代の人たちならアテシの経験よりも酷い想い出をたくさん持っているんだと思います。
死を選んだ友人
当時は未だゲイだとカミングアウトして家を追い出された人はたくさんいました。
周りも「当たり前」感が大きくて「間違っている」そんな反対意見を言う人は少ない時代でした。
アテシの友だちも同じで10代の時に家を追い出されて独りで生活していました。
そしてAIDSを発症し病に伏します。
当時彼は20代後半だったと思います。
仕事も失い、保険も失いました。
家賃を払えなくなりアパートからは立ち退きの通知が届く毎日。
頼れるのは数少ない友人だけ。
病はどんどんと進行し痛みに耐えれず眠れない日々。
そしてとうとう彼は死を選びました。
拒否
そこで終わらなくてトラウマになってしまっと言っても過言ではありません。
彼の死を家族に伝えても「そんな人は知らない」の一点張りだったんです。
遺体の処理を迫られたウチら友人たち。
お金がないのはもちろんですが、遺体を運んで火葬してくれる葬儀屋も見つからないんです。
どこに連絡しても拒否されるんです。
日本ではどうか分からないですが、葬儀屋も死因を見ることが出来たんです1。
どこに連絡しても最初は問題無く承諾してくれるんですが実際に遺体を引取りに病院に行くとそこで拒否されるんです。
病院もこれ以上置いていれないと電話の嵐。
1週間程度掛かったと記憶しています。
100km以上離れた街にある葬儀屋が引受けてくれました。
お金はゲイバーで集めました。
来ているお客さんに少しずつ募金貰って、最終的にはバーのオーナーが大金を募金してくれて間に合わせました。
命を否定
宗教なんて関係ない。
一つの命がこの世を去った事実は変わりません。
どこも彼処も、誰もかれも、臭いゴミを扱う様な言動。
あの時感じた悔しい思いを忘れられません。
ペットの犬が死んだ時とも比べようのない対応。
自分たちの命が否定された感じがしてあの悔しさは今でも言葉に表せません。
Never Again
核戦争にちょっと似ている?
忘れてはいけない。
忘れさせてはいけない。
アテシは命の尊さは忘れてはいけない。
セクシャリティーが如何であろうと、人であろうと犬であろうと鯨であろうと。
- スミマセン。今は如何か知りません。 ↩︎
コメント
コメント一覧 (4件)
胸締め付けられて、何か涙がでてくるよ、、、、1987年僕は、ロサンジェルスで、職業学校に行きました。毎週末は、勿論、ゲイバー、アジアンゲイディスコなんてのも、あった、サウナ(お気に入りは、シルバーレイクのサウナ)若かったから、と言っても30才、もてたし、あー、このまま、ここに、いたら、絶対、エイズになるなあ、と思って、エイズ検査がnegativeの結果を聞いて、仕方なく、東京に戻りました。その当時のエイズに関する日本の新聞報道は、ものすごかった。それから、15年位、東京で、沈んでましたが、自分が、外専だと強く自覚したのは、ほんの、四、五年前です。そんな、外専にとって、パラダイスのロサンジェルスを去る決心をしたのは、死に対する、本能かいな? 亡くなった方達は、もう、無念としか、いいようがないだろうね。合掌。
Etienneさん
コメント有難うございます。
無念だったと思います。何もしてあげられずに死を見届けた方々も。
ゲイとして本当に気楽に生活している今があるのは色んな人たちの犠牲の元ですよね。
忘れてはいけない。そういつも自分は思っています。
あの頃のLA,SF,NYはスゴかったですよね。。。
ある人はオセロ倒しのようにって表現を使っていたの思い出します。
僕のバイブル、THE GAY 100という本で、Edmund Whiteが、同じような表現で、エイズで、倒れたたくさんの友人の事をいってますが、本当に、けび子さんの言うとうり、忘れちゃいけないことですよね。エイズ治療薬も安価になったし、しかし、それは、犠牲者が、いたからこそ。。。。
9月に、うちらのホームドクターが、引退パーテイ―したんですが、彼は、エイズ治療の大家で、パリじゅうのゲイのおじさん(おっさん)大集合ってな雰囲気で、すごかった。いいな、と思ったんは、ひとりしか、いなかった。ごめん、話がちがいますね。
Edmund Whiteはアテシが好きな作家です。沢山読みましたよ。彼の本。
パリ中のおっさん集合も見てみたかったなぁw
ダンディーな方だったのかしら、その一人だけ良かった方は。
こうやって、一人でも二人でも忘れずに語り続けていくことが大切だと思っています。
年に1度だけでも。