※ちょっと長いです。
大小は別にして、誰にでもある幼児期のトラウマ。
『トラウマ』って言うと大袈裟ですが、思い出したくない出来事ってあると思います。
今日はちょっとこのアテシのトラウマについて書いてみたいと思います。
突然の引っ越し
アテシの出身は、東京の荒川区です。
その後、幼稚園の年長組になるまで埼玉県の幸手市で幼児期を過ごしました。
その頃の記憶は薄いのですが、住宅団地で毎日友だちと遊んでいた記憶は鮮明にあります。
あっ!喧嘩して謝りに行かされた事も覚えています😅
その頃、急に九州に引っ越すことになったんです。
父方の祖父母の容態が悪くなったのが理由ですが、小さかったアテシには全く理解不可能な出来事でした。
方言に苦しめられる
九州に引っ越して最初にアテシを苦しめたのが『方言』でした。
女の子みたいな話し方
そう良く揶揄われました。
いやぁ〜だ。
いくら何でも、そんな子供の時からおねーことばでなんか話していませんよ🤣
単に、標準語との差ですよね。
九州の田舎だった事もあって、幼稚園から小学校までは同じ子たち。
小学校に入っても揶揄われ続けました。
朝鮮部落
家族が引っ越したのは『朝鮮部落』って呼ばれている地区でした。
もう、今じゃ存在しませんが。
アスファルトも砂利も無くて道路は土でした。
トイレも家には無くて部落の中心にある公共のポトン便所1があるだけ。
家には五右衛門風呂があっただけ。
外から焚き火で水を温めていたんですよ。
近所の駄菓子屋に行っても話している言葉が違うってのは分かるんだけど、何を言われているのかチンプンカンプンでした。
それでも近所の子たちと仲良くなって遊んでいた記憶はあります。
この頃からですね、ちょっと何かが違うって感じ始めたのは。
地獄の小学校時代
最初に入学した小学校は生徒数が多くて分校されることになったんです。
アテシは新しい小学校へ転校することになりました。
いつ頃だろう。
2・3年生かな?
この小学校は前の小学校よりも、部落に近い場所に出来たんです。
その頃から突然仲間外にされるようになったんです。
当初、理由は全く不明でした。
後から分かったんですが、アテシが部落に住んでいるから仲良くするなって親から言われていたらしいんです。
全く面識もない大人からそんなこと言われる筋合いないですよえ。。。
急に変わっていく自分の周囲に理解出来ずただ傷付くだけの毎日。
小3から5年くらいの期間に3回ほど自殺未遂しています。
最初はガス自殺。
外で遊んでいた弟が戻って来てガスを止めたので失敗に終わりました。
2回目はカッター。
この時は、母親が体調悪くして仕事から戻って来ちゃって。
色々と聞かれましたがアテシは何も口を開かないので心配させて終わり。
最後は学校の屋上から飛び降り。
仲間外れで終わらず、連日弄られたり揶揄われたりで先生に話しても『あなたに非があるんじゃないの?』って言われて行き場所が無いって思ったんです。
屋上に駆け上がって飛び降りる寸前で先生に捕まって終わり。
責任持てません
3度目の未遂は学校だったのでもちろん親が即呼び出されました。
担任の先生は母親にこう言ったんです。
この子の責任は学校では負えません。
このまま通学させるのはご自由ですが、何が起こっても私も学校も一切の責任は取りません。
横で聞いていて、すごく辛かった思いを今も忘れることが出来ません。
母親の決心
ウチの両親は、父親が韓国人だってことを話したくなかったそうです。
父親も酷い幼児期を過ごしていて、子供にはそんな経験をさせたくなかったからだそうです。
でも、学校での一件後、母親が腹を括ったそうです。
ウチら兄弟を座らせて淡々と話をしました。
話された内容はこんな感じでした。
- 公務員になる夢は持たない。
- 出世だとか大きな夢は持たない。
- 何があっても、何を言われても、人を責めない。
- 何をされても、何を言われても、我慢しなさい。
- 兎に角、徹底的に無視しなさい。
- 何故なら、お前たちが悪者になる可能性が大きいから。
表情一つ変えずに淡々と話た母親がこれほど怖く見えたことはなかったと思います。
またの引っ越し、そして転校
この一件後、ウチら家族は部落から出て新しい街に引っ越しアテシも転校しました。
新しい学校に、新しい担任の先生。
もちろん前の学校での出来事は聞かされていたと思います。
すごく若くて綺麗で優しい先生でした。
小学校5・6年はこの担任の先生で本当に救われました。
始は怯えていたアテシも少しずつ殻から出るようになって、卒業する頃には一定の子たちとですが遊ぶようになりました。
小学校卒業の日。
生徒みんなに直筆の色紙を手渡してくれた担任の先生。
アテシのは一つの文字だけでした。
【友】
これからのアテシの人生で『友だち』は重要だよって言われました。
本当に大切ですよね。
友だちって。
さいごに
察して頂けると思いますが、あまり思い出したくないお話です。
環境が変わり、新しい担任の先生との出会いで救われました。
その他でもアテシはたくさんの人たちに救われて来ました。
『本当に人に恵まれている』って心底思っています。
窮地に必ず誰かが手を差し伸べてくれているんです。
だから、恩送りにも固執するんだと思います。
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- 汲み取り式便所 ↩︎
コメント
コメント一覧 (4件)
d(`・ω´・+)コンバンワッ★
読み進めていったら涙が溢れちゃったじゃん( ᵕ ᵕ̩̩ )
すごく苦労されて育ったんだなぁ~。
よくぞ素直に←親かお前 w
傍にいたら頭撫でてあげたい♡
ボクも親の都合で点々と引越しをし転校ばかりしてたんで
馴染めず女っぽいからと的にされたけど
そんな経験も含めて自分何だなぁ~と思えるお年頃 www
何を言われても 人を責めない心。
なかなかできるものじゃないです。
今の人たちに1番必要な言葉のように感じます。
つづき…
しんどくなければまた読ませてね✌️
まちゃるねぇ〜さん、こんばんわ。
夜中にこんなの読ませて申し訳ない。
でも有難うのハグ〜🤗
昔の話ってたまに思い出しますよね。
一度何か思い出したらそこから芋づる式に色々と。。。
『悔しい』って感情だったり、『許せない』って感情もありましたね。
同時に自分には何も出来ないって無力感だったりも強く感じた時期でした。
結局は親の言葉がネガティブに陥りそうなアテシを助けてくれたんだと信じています。
外で他の子を作るような父親でしたが、いつも『20歳までは』との前置きありで、【好きな事をしろ。責任は親が取るんだから】って言われていました。
だからと言って何をする訳じゃないですが、自分の後ろには親がいるって存在感には助けられたんだと今になって思っています。
母親は、『人に指を刺したら3本の指は自分を向いていることを忘れるな』って言われていました。
人のことどうこう言っている暇や労力あるなら、その分自分に費やしなさいって。
幸せや達成感なんて、自己満足なんだからって。
親の存在ってすごいですよね。。。
私は何の苦労も知らない正反対の子供時代だった気がします。
お母さま素敵な方ですね。自分の子供にこの言葉を伝えるのにどんな葛藤があったか想像すると涙が出ますね。
幸手を『さって』って普通に読める人って少ないですよね。いとこが幸手の『東部団地』に住んでいたので子供の頃は夏休に遊びに行ってました。
Giroさん、お帰りなさい🤗
バケーション楽しそうでしたね〜。
お疲れのところ素敵なコメントまで頂いてありがとうございます🙇♂️
母親も学校で面倒見切れないって突き放された時に腹括ったそうです。
あのまま幸手で生活していたらって思うことも多かったそうです。
人生って本当に何があるか分からないもんですよね。
親の口癖になっていました。
『さって』って読める人が少ないなんて!
アテシがその一人だなんてちょっと嬉しかったりしています😉