突然何かを思い出すことってありませんか?
今アテシ、高校時代を思い出しながらノスタルジアに感傷しています。
大学留学を考え出したきっかけ
『国際文化コース』なって小洒落たクラスのある県立高校に通っていたアテシ。
英語だけではなくその文化も学ぶなんてクラス。
英語の授業はもちろん、LLクラス、コミュニケーションや国際事情などの授業も有ったんです。
しかも全部英語で授業を受けていました。
教員も海外の大学卒業だけでなく、海外の学校で弁を取っていた経験者ばかりで、英語の発音も日本人訛りがほとんどない先生ばかりだったのを鮮明に覚えています。
外国人の先生も確か2名くらい在勤していました。
『英語』と言う言語に触れる最高の環境でした。
大学の進学先の話が出始めた2年生のころ。
アテシの成績じゃどう見ても国立大学には入れるようなレベルじゃなかったんです。
英語だけは飛び抜けて良くても他の成績が・・・
私立なら行ける大学もあったとは思うんですが、ウチの家庭にそんな余裕はなくて。
そんな時に在勤していた外国人講師から留学を勧められて真剣に考えるようになりました。
親を説得するために
ウチの家庭は裕福ではなく、国立大学に行かせて貰えるのも精一杯。
私立は本当に念頭にも有りませんでした。
そんな家庭の経済を知っているだけに、海外留学なんて夢のまた夢です。
外国人講師に勧められて、親にちょっと話をしてみましたが、もちろん猛反対ですよ。
しっかり勉強して国立大学に行けば良い💢
この頃の為替レートって1ドルが250円とかだったかな。
もちろん、イギリスとかオーストラリアはもっと高くて、諦めた方が良いと思って今いた。
そんなアテシを助けてくれたのがこれまた在勤の外国人講師陣でした。
色んな情報を提供しながら大学留学を応援してくれました。
その中でも一番役に立ったのが『アメリカンセンター』に通うことでした。
勧められて1年半くらい毎週末通いましたよ。
当時はパソコンなんて無い時代です。
マイクロフィッシュ1って言う器材を使って、アメリカにある大学という大学の情報を読み漁って通える程度の大学が無いか調べました。
親を説得するための条件はこの2つ❗️
- 寮がある
- 日本の国立大学と同額か安い
調べた大学の情報を持って来ては講師や先生たちの意見を聞きながら目安の大学を選定しました。
留学ビザ申請の準備
今はどうなったかわかりませんが、当時Fー1ビザ(アメリカ留学ビザ)を取得するには、大学からの入学許可証が必要でした。
その他に、留学期間中の財務負担者の銀行残高証明だったり、財務負担を保証する覚書の作成などの条件もありました。
アメリカンセンターに通い詰めた甲斐あってコストもそこそこで、寮もあって、看護室も装備されている大学が見つかりました。
もちろん、TOFLEの点数もある程度必要でした。
当時は、TOFLEの受審を申請するのも面倒で、申請書を書類で送って、料金は現金書留とかだったと思います。
TOFELは一回で運よく点数を取れたので無駄な費用にならず済みました。
大学の入学条件やビザ発行の条件は頻繁に変わるとの事で、アメリカ人の在勤講師にも注意をしろと言われていたので大学にも手紙を書いて必要な条件や書類の確認をしました。
大きな難関は親の説得です。
運が背中を押してくれた
高校3年の春だったと思います。
3者面談に来て順番を待っていたウチの親を、外国人の在勤講師が呼び止めたそうなです。
なんと、日本人の奥さんを連れて来ていたんだとか。
母親はその時にこう言われたそうです。
息子さんが日本で学ぶ英語はもう無い。
日本の大学で英語学科を取るよりも、海外で英語で何かを学ぶことを勧める。
その実力もポテンシャルも十分にある。その芽を摘まないでほしい。
母親曰く、この時に折れたそうです。
最初は赤の他人にここまで言われる筋合いないと腹立たしく思ったそうです。
でも帰りの電車の中で、ここまで考えてくれる人が息子の周りにいたことに感謝する気持ちの方が強くなったんだそうです。
この話は出発前に空港で待っている時に母親から教わりました。
その人たちのためにもしっかり頑張りなさい。
もう一つの運がアテシの留学を後押ししてくれました。
TOEFLEも問題なくパスし、大学へ提出する書類を準備している最中だったと思います。
髄膜炎になってしまい3ヶ月間入院してしまったんです。
高校3年の夏の事です。
この時期は未だ父親が頑なに留学に反対していたんです。
救急病棟で医者から『後5分遅れて来たら死んでいましたよ』っと言われたらしく、ここで父親も折れました。
人生1度しかない。もう好きな様に生きろ。
猛反対していた父親が折れた時の言葉でした。
20歳になるまでは金銭的なサポートもする。その後は自分でどうにかしろ2。
ウチの父親らしい条件付きでしたが。
さいごに
こんな感じでアテシは大学留学をすることになり親元を18歳で離れました。
国内でも18歳で独立する人がたくさんいるのでそんなに無謀だとは思いませんでした。
場所が海外ってだけで、アテシも未来への希望にドキドキしていました。
大学留学はアテシの人生の大きなターニングポイントです。
あの時あの外国人在勤講師が母親を説得しようとしなかったら・・・
あの時アテシが髄膜炎にならなかったら・・・
色んな人にいつも助けられているアテシ。
今宵もそんな人たちを思い出しながらノスタルジックな気分に浸っております。
- マイクロフィルムの一種。カード状で普通は A6判 (105mm× 148mm) サイズに 60コマの像を複写する。フィルムの検出が容易で,保存場所は小さくてすむが,縮小率が大きいので復元がややむずかしいという欠点もある。技術文献,部品のカタログなどに使用され,専用のカメラやリーダ・プリンタが使われる。 ↩︎
- 本当に20歳になったら仕送りも消えました。 ↩︎
コメント
コメント一覧 (4件)
私の両親もそうなのすが、紆余曲折あっても私の決めた事には反対しない人でした。
今考えると感謝しかないですね。
Giroさん、おはようございます❣️
バカンス中にコメント頂いちゃって感謝しております🙇♂️
『自分の決めた事に責任を持ちなさい』ってスタンスでしたね。
感謝しかない。
本当にそう思います。
そういう経緯でこちらにやってきたのですね。いい話、シェアしてくれてありがとうございます。
やはりあの頃の年頃はまだまだ親の影響というか力が絶大ですから、彼らの同意がないと何もできませんもんね。それを思うとKevinさんのことを思ってこうして送ってくれたご両親は大きな心で素晴らしいお人柄なのでしょう。
JPNSFOさん、おはようございます❣️
今日もコメント感謝しております🙇
髄膜炎に罹らなかったら許してもらえなかった留学ですね。
父親が頑なに反対していたので。
あの時病気にならなかったらどんな人生だったんだろうなんて思うことも有りました。
良い悪いは別にして、親の存在って本当に大きいですよね。